今だから書けるあの頃のエッセイ 1 「夜明けの電話」
2011-10-31


 
   夜明けの電話

 大学生のとき、高校時代の親友N子の紹介で、新宿にある「ふじた」というキャンドルショップでアルバイトをしていた。
 業務用販売や卸を主とした小さな会社で、社長のほかにパートの女性が二人だけ。アットホームな雰囲気で、学生のバイトとはいえ何でもやらされる。大きなメモリアルキャンドルを何本も車に積んで、結婚披露宴会場に届けたり、テーブル用のキャンドルを六本木の高級クラブに収めに行ったりもした。
 社長の藤田さんは、油の乗った四十代後半。脱サラをしてその店を始めたという。かっぷくのいい体に仕立てのよさそうなダブルのスーツを着込み、朝からきびきびと立ち働く。指の付け根近くにハイライトを挟んで短くなるまで吸う。コーヒーはブラック。あごと肩で受話器を挟み、メモをとりながら、大きな声で電話をかけ、最後は必ず「よろしくどうぞ」と言って切る。それまであまり見たことのない、自分の父親ともまったく違うタイプの男性だった。
 N子のお父さんが若いころから友人だったそうで、彼女は「おじちゃま」と呼んでは、かわいがってもらったという。藤田さんは、私に対しても同じようにやさしく温かく接してくれた。
 いつだったか、N子のいないときに、彼が話の途中でふとこんなことを言った。
「ひとみとN子は、ずっと親友でいつづけることは難しいかもな」
 いつも控えめなN子と、目立ちたがりの私。対照的な私たちだけれど、異性の悩みも打ち明け合うような仲良しだ。たぶん、これからもずっと。でも、そうじゃないのかな。ちょっとさびしい気がした。それでもやがて、言われたことすら忘れていった。
「ふじた」の従業員や出入りの人々は、みな社長とはサラリーマン時代からの付き合いだそうで、いわば旧知の間柄。社長の留守にやってくると、話しこんで帰っていく。だから、私も長く働くうちに、彼の私生活のことまで耳に入ってくるようになった。
 彼には奥さんと息子さんが一人。
「やり手の藤田さんだもの、それだけじゃないのよ……」
 外にも女の人がいる。公然の秘密らしい。

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[エッセイ]

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